情報に溺れる

 どうもアキヒロです。今日は真面目モードです。

 

 本日の題材はタイトルを見た感じ重そうですね〜。

 とは言え、そこまで暗〜い話をするつもりはないので、読んでいただけたら幸いです。(以下の文は全て何かしらの揶揄です。御了承ください。)

 

      〜真偽・善悪の基準〜

 さて、ここから話していく訳ですが、皆さんはどのようにして物事の善悪や嘘ホントを分けているでしょうか?

 「実際に見聞きしたこと」や「あの人が言ってたこと」、影響力のある人の発言。色々と判断材料となり得るものはあるでしょう。

 しかし、それら全ては「情報」です。「情報」が世間的な物事の本質になる事が大半ですが、それは果たして正しいのかは疑わしいです。

 では、どうやって真偽を見定めるのか。

 簡潔に言ってしまうと、真偽というのは個人の価値観が作り出すものです。

 それは、皆さんの感じるままの解釈が真でもあり偽でもあるということです。

 

 つまり、真偽の基準は人しだいです。

 

       〜情報の本質とは〜

 

 では、「真偽は個人の価値観で決まるなら、情報ってなんのためにあるの?」って話です。

 そもそも情報にも数種類ありますよね。序盤で挙げたように、実際に経験したもの、人to人で聞いたもの、メディアto人で見聞きしたものなど本当に色々な「情報」があると思います。

 あなたが今読んでいるこの文章だって私が感じたことを文字という媒体を使って表現している情報です。

          しかし

 ここでよく考えて欲しい。

 皆さんが手に入れた情報は「正しい」ものなのか。それが「正しい」と言い切る根拠はどこにあるんでしょうか。

 この問いに違和感を覚えた方もいると思います。

 そう、なぜなら情報には「正しい」だの「間違っている」という表現はそぐわないからです。

 考えてみましょう。

 貴方に気になる人がいたとします。その人はもうすぐ誕生日です。貴方はこっそりとプレゼントを用意したいと思うも、その人の好みがわからない。どうしようかと悩みます。「そうだ、その人の友人なら何か知っているかもしれない」そう思って趣味・趣向を聞き出します。

 さて、ここで聞き出した趣味・趣向という「情報」に正しさは存在するのでしょうか。

 きっと、多くの人は与えられた「情報」をそのまま「情報」として捉えると思います。そこに正しさなんて関係ないのです。

 というより、必ずしも正しくある必要は無いのです。

 なぜなら正しいか否かというものは、最序盤で話した「真偽の基準は個人の価値観」であるということですから、そこに「情報」が介在する余地は無いのです。

 何が言いたいかというと、「情報」の本質はただの「情報」だということです。

 

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 さて、この記事で何が言いたかったかというと

・「情報」は「情報」以上の意味は持ち得ていない

・「情報」の真偽を判断するのは各自の価値観である

 

 この2つを混同させてしまうと物事の本質なんて何も見えてきません。

 

 あらゆる事物の本物だとか偽物だとかは、その個人の価値観であって、その事物の「本質」では無いということを覚えておいて欲しいです。

 

 つまり、この記事で僕が言いたいのは、あらゆる「情報」の見方を、自らの価値観で考えを染めてしまうと危険だよということです。

 

 はい。そういうわけで、皆さまいかがでしたか?いろいろな情報が飛び交うこの界隈には少し大切な思考かと思って書きました(っていうのは建前という話は伝わる方には伝わったかと思います)。

 言いたいことは書けました。

 てなわけで、今日はお暇します。